合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

ロラン・バルト「明るい部屋」のブックジャケットについて

一部で顰蹙を買っている #ブックカバーチャレンジ のバトンがついに私のところにも来ました。もちろんあえてのことだと思いますので甘んじて受けます。

私に渡したKさんへの抗議の悪態は明日以降に回すとして、初日はロラン・バルトの「明るい部屋」(花輪光訳。みすず書房)を紹介します。

Kさんの投稿によると、みなさんがアップしてるのは、実はブックカバーではなくブックジャケットのようです。こういうルール自体のおかしさを細かく指摘するところが彼らしいユーモア(アイロニー?)です。

その指摘を読んで、ふと昔の本が、モノとしてもいかに読者の欲求を深く満たしていたのかの例として、この本を取り上げるのが #ブックカバーチャレンジ にふさわしいのかなと思いました。

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ロラン・バルト「明るい部屋」(みすず書房)

新品で巻かれたグラシン紙

この本のカバーはグラシン紙(パラフィン紙)で包まれていますが、これは丁寧な仕事をする下北沢あたりの古本屋によるものではなく、新品の状態でこうなっていました(1988年時点)。

いまこういうことをすると流通の過程で端が破れたりして書店に嫌われるので、新装版は白地に写真が載ったものに変わっています。

そしてこの薄い紙をめくると、顔が映るほどギラギラした鏡のような銀色の紙に、緑と黒のインクで書名と著者名、それに一枚の絵が印刷されています。この絵はプリズムの原理を利用した写生補助道具「カメラ・ルシダ」の使い方を描いたものです。

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ギラギラした鏡のような銀色の紙

で、本を読めば分かるのですが、書名の「明るい部屋」というのは、バルトがカメラ・オブスクラ(ピンホールカメラの原型。「暗い部屋」の意)に対応するものとして引き合いに出したカメラ・ルシダのことであり、本をカバーするグラシン紙と銀紙は、プリズムの表面にうつしだされた「映像」のニュアンスを再現するために選ばれたのではないかということです。

ここまで凝ると「編集者の仕事」という感じがしますよね。これと比べると、てにおはのチェックくらいしかしないウェブ編集者など見習いレベル以下としかいいようがありません。

ついでにルールを破って内容にも言及すると、この本は「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という印象的な概念を使って写真のはたらきを説いていくのですが、ちょうど半分くらいに来たところでなんと「前言取り消し」をするのです。

私はこれまで述べてきたことを取り消さなければならなかった。

呆気にとられていると、後半でバルトは唐突に亡き母の写真について語り出します。そして写真のノエマは「それはかつてあった」というものであった、という単純で平凡な結論を導き出します。

書物の異様さに当惑すること

――こう書いてしまうと、何が面白いんだ?と思う人も多いでしょうし、確か池田信夫さんあたりが言ってたと思うんですが「バルトは過剰評価されている」という指摘も当たってると感じます。歴史上、重要な人物ではないかもしれない。エコール・ノルマルも出ていない。

でも、彼の書いたものを深く愛する人が少数だけどいるのは事実なんですよ。多数でも重要ではないが、愛されている。これは素晴らしいことだと思います。

あとおまけですが、どういう意図か分かりませんがケルテスが撮ったモンドリアンの写真にはこういうキャプションが書かれているのがいつ読んでも笑えます。

《知的なことは少しも考えていないのに、どうして知的な雰囲気をもつことができるのか?》

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ピエト・モンドリアン

さて、そんな「明るい部屋」ですが、私はこの本を面白かったという人に会ったことがありません。もちろん、そういう人を引き寄せられなかった私の方にも問題があったのだと思います。

その一方で、この本を面白がれなかった人が少なくない理由は、「ストゥディウム」とか「プンクトゥム」とかいう概念を使って写真を説明する部分で、ふむふむとかまるで分かったような気になったり、あるいは小難しいなとか感じて、途中で読むのをやめてしまったからではないかと考えています。

本書から「記号論」や「写真論」を読み取ろうとするから、端的な結論が出てこないと感じて、つまらなくなる。まずは書物を虚心にパラパラと眺め、その異様さに対して素直に当惑するところから始めるべきでしょう。