クビになった吉野家の元常務を擁護したい(が炎上が怖くてできない)おじさんもいると思うので代わりに書き飛ばしておくと、社会人向けのマーケティング講座における発言であったあの指摘は、マーケティングの実務を学ぼうとする人にはかなり参考になる可能性があったのではないかということだ。
コモディティのスイッチングコストは高い
彼の古巣のP&Gだってそうだけど、洗剤なんてコモディティ化してどれだって大して変わらない、もしかすると水洗いでほとんどの汚れが落ちてしまうのに「この洗剤じゃなくちゃ絶対ダメ!」と思わせる。それに首尾よく成功することでビジネスの永続性が決まってしまう。
マーケティングというのは、そういうインパクトの大きな仕事だ。
カレーの「ココイチ」やペットボトルの「いろはす」なんかも、決して他と比べてうまいわけではない。むしろまずい。でも、なんとなく手頃な味とか環境によさそうとかいう理由で選択が決まってしまい、いちどブランドが決まってしまえばスイッチングコストは意外なほど高い。
スイッチングコストとは、現在利用している製品やサービスから、別の製品やサービスに乗り換える際に負担する金銭的、心理的、手間のこと。要するに人はいちどお気に入りを決めてしまうと、根拠を問わずそれを変えるのが面倒になる。保守的な日本人ならなおのこと。
だからマーケッターは真剣だし、成功したときの成果も報酬も高い。
「18歳までに身につけた偏見」の強固さ
「生娘をシャブ浸け」という表現が不適切なことは、本人だって分かっているに決まっている。だが、牛丼ビジネスを今後も安泰たらしめるために、若いうちに味を覚えさせることの重要性は強調しすぎても、強調しすぎても…しすぎることはない。特に社会人向けのマーケティング講座においては。
実際、私のように若い頃に牛丼を食べなかった人は、歳を経てからもまったく食べない。反対に牛丼をよく食べる人で「牛丼といえば吉野家に限る」といってすき家や松屋に行かない人が会社にもたらす利益は計り知れない。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」とはアインシュタインの言葉らしいけど、「軽食=牛丼=吉野家」という常識を若い子にいかに植え付けるかが、マーケティングでありブランディングであって、その成否は今後の何十年の事業を左右するものであるということは、どんな表現を駆使しても強調したりない最重要ポイントだった。
それを伝えるために「不適切な表現で不愉快な思いをする方がいたら申し訳ない」という前置きをしたうえで、あえて強調するのは、講師として許容される程度のリップサービスだったといっていい。
本質を突いてさまざまな思考を呼ぶ「シャブ浸け」
もちろん、会社が問題視して即座にクビにすることは自由だ。特に吉野家はいま、若い女性向けのマーケティングを強化しているところなのに、あんな発言が漏れたら逆効果なので強硬姿勢で臨むのは当然。夕方のテレビで10代の女の子たちが「気にせず食べる―笑」と言ってたのには笑ったけどね。
会社の処分は自由だが、マーケティングを学びたい人が抱く「マーケティングって何なんだろう?」という疑問に対する、本質を突いた実務家のひとつの答えであったり、現実を示そうとした当人の意図だったりが、まったく見えなくなってしまうのはどうなんだろうかと思う。
実際、「生娘をシャブ浸け」戦略は、言葉の下品さは脇においても、真意は考えれば考えるほど深くさまざまな思考を呼び、マーケティングを学ぶ上での入り口としてはそれなりに適切な表現なのではないか、という思いは個人的に拭い去れない。きのうから、アートやアーチストにおける「シャブ浸け」とはなんだろうとずっと考えていた。
なので、この元常務を「品性に欠ける」と批判しているやつをみると、バカじゃねえかと思う。品性に欠ける表現をして何が悪いのか。ていうかあんた自身の品性は脇に置くのか。それより今知りたいのは、戦火をくぐり抜けて来た人が見た現実とか本質の方じゃないの? 優等生は死ね。
問題はマーケティングそのもの
ただ、マーケティング(の暴力性)そのものを根本から否定するつもりなら、それは傾聴に値することだ。
例えば「判断力のない未成年向けのマーケティングは禁止すべき」という理由つきで元常務を批判するのであれば、それは正当性があるのかもしれない。そこまで言うならば「人権・ジェンダーの問題」と整合性が取れる。
しかしそのときは「リカちゃんとかプリキュアもダメなの?」ということになるし、そうだというなら世の中ずいぶん退屈になるなと思う。
クリスマスとかバレンタインデーとかも禁止かよ。実際にはどちらも実態は「シャブ浸け」なんだけどね。でも、本当のことは言ってはいけないらしい。「品性に欠ける」から。