まる3日間、家を出ていない。水曜日に買いだめをして、この1週間はトータルで30分以内しか外に出ていない。
なのに変異株の感染者が、「職場と家との往復しかしていない。あとはコンビニとスーパーくらいしか」とニュースで言っていて、思わず笑ってしまった。そりゃ感染するだろ、危機感なさすぎ。
でも、若者よ。君たちは例外だ。10代、20代の子たちの夏を、2年連続で奪うことは無理だし、すべきでもない。
いまや20代の感染者が3分の1を占めているが、これでいいのだ。年老いた「専門家」たちは、こういうところまで配慮できないから、警告に耳を傾けてもらえないのは当然なのだ。
うちの次女はワクチンが打てないまま、五輪選手村へボランティアに通っている。いくら私が家から一歩も出なくても、家庭内感染のリスクはかなりある。それでも私は、次女に「ボランティアはやめなさい」と言うつもりはまったくない。
19歳の夏の幸福感は、人の一生を左右するほど貴重なものだからだ。
一方、おっさんの夏の重要度は遥かに低く、何年我慢したところで何が変わるわけでもない。おとなしく閉じこもっているのがお似合いだ。
すでに人生をそれなりに楽しんだ私は、次女に変異株をうつされて死んでも諦めるべきだ。もしそのときが来たら、こう言い残して喜んで犠牲になろう。
「気にするな、忘れろ。自分の人生を楽しめ」
次女も感染しないに越したことはないが、可能な限りの感染対策をしているわけだし、仮に感染しても重症化リスクは老人より低いはずなので、感染だけを恐れて家に閉じこもっていては失われるものが多すぎる。
これから冬にかけて、変異株の大感染が予想されている。ワクチンが効かないとすれば、この夏の比ではなくなるのだろう。
そうなると、治療の優先順位をつけなければならない。トリアージだ。
しかし、「ゼロコロナ」など非現実的な要求を政府に突きつける、臆病で神経質な国民感情を踏まえると、結果的にリスクの高い老人に手厚すぎるコストを掛ける結果になりかねないと懸念している。
19歳の人間と、89歳の人間の、どちらを優先して救うべきなのか? そんなの前者に決まっているではないか。人の命に軽重はない、などという無難さに意味はない。
人間50年。もう50歳も超えれば、何が理由で死んでもおかしくないのだ。変異株による死亡者数は、50代以上はもう数えるのはやめよう。ぜんぶ「寿命」でいい。あるいはまとめて「運命」ということにしてしまおう。
そしてコストと医療資源を、40代以下、特に10代、20代の若い人たちに全振りしよう。彼らを救い、未来の日本の建て直しを託そう。
え?「これまでの日本を作ってきた世代への敬意が足りない」だと? おまいらはただ、経済成長のおこぼれをいただいてきただけじゃないか。言うほど大したことをしてきたわけじゃない。それに、もう十分報酬は受けてきたはずだ。
だいたい、あの五輪のクソ開会式の無様さはなんだ。あれはおまいらそのものじゃないか。