合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

ジャーナリストだけが知らない"問題解決"のフレームワーク序説

以前「ジャーナリストだけが知らない"問題解決"のフレームワーク」というタイトルを思いついたが、いろいろと忙しくて書くには至らなかった。

しかしこのたび新田哲史さんがSAKISIRU(サキシル)という新しいメディアを立ち上げ、

「右でも左でもなく前へ進む、リアルな課題解決志向」
「先送りばかりで"ヌルい"日本をもう一度アツくする」

というコンセプトを掲げていたので、特に前者の言葉には親和性があるなと思い(いや後者もか)、お祝いも兼ねてできるだけシンプルに書き飛ばしてみようと思う。

問題解決のフレームワークとは、ある程度のキャリアを積んだサラリーマンなら当たり前に知っていることだし、アクセンチュアの新入社員なら入社半年で教わる基本的な事項である。

なぜなら、ビジネスとは問題解決だからである。

ビジネスに関する組織的な意思決定をおこなうためには、問題をどういう枠組みで位置づけ、どのような理由で何をするかを整理し、関係者でコンセンサスを取ることが必要になる。

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しかし、新聞記者やメディアのライターは、なぜかこういうことを教わることがない。少なくとも、実際の新聞記事でそのような枠組みを意識して書かれていると感じられるものは、ほとんど目につかない。

それは新聞の紙幅の制約から来る型にとらわれている限り無理な話なのだが、ウェブで事実上文字数の制限がなくなってからも、そのような流儀が元からなければ、どこからか湧いてくるわけではない。

逆に、ビジネスで一流の実績を上げる人の文章は、新聞記事を読んだときの「なんか足りないよな」というモヤモヤが少ない。

普段から何かを考えるために必要な情報を収集、分析し、そこから言えることを構造的に組み立てているからだろう。

基本のフレームワーク(A型)

問題解決のフレームワークといっても、実はさほど大したことのないシンプルなものである。文章にすれば、たったこれだけのものに過ぎない。

「問題とは、現状とあるべき姿のギャップであり、問題を解決するためには、その発生要因をつぶすための課題を実行する必要がある」

これを図にすると、以下のようになる。誰かカッコよく清書して(笑)。

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なお、コンサルティングファームでは現状を「AS-IS(アズイズ)」、目指す姿を「TO-BE(トゥービー)」、課題を「TASK」と言ったりする。

細かな点線には「要因は現状の中にある」「課題とは要因をつぶすこと」「問題点の解決が目指す姿の実現につながる」という意味を込めている。

また、図式はしなかったが「要因分析を十分せずに、問題点を直接つぶそうとすることを“対症療法的”といい、根本的な解決につながらない悪手となることが多い」という点を書き添えておきたい。「複数の要因のコンフリクトを解消せよ」ということであり、ここに問題解決のキモがある。

これを仮にA型としておこう。この図でも分かるように、問題解決とは一種の弁証法であって、こんなものはポストモダンの時代には古いなどという意見もあるかもしれないが、まあ少なくとも一度は近代くらい通過しておこうぜ、ということで。

重要なのは、問題が現状と目指す姿との間に発生するものであるということと、問題を解決するためには、発生する要因を分析し、課題でつぶすことで目指す姿を実現すること――という当たり前のことを繰り返しておく。

急進/革新派(B型)

このフレームワークを応用し、「保守」と「革新」について整理してみたい。ざっくり書くと、「急進/革新」とは一般に以下のような図で表すことができる。

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これをB型としよう。「目指す姿」だけが肥大化し、それに伴って「問題点」もやたらと大きくなる。しかし現状や要因分析を踏まえていないので、課題は空疎なものになり、問題は一向に解決しない。

例えば「すべての日本人は無料で大学を卒業させるべきだ」といった壮大な目指す姿を設定し、そこからいきなり「金銭的な理由で大学に進学できないのは問題だ」という問題点を抽出する。

そういう雑な問題の整理からは「すべての若者に進学給付を!」「国は何をやってるんだ!」という雑な課題しか出てこない。

 

守旧派(C型)

今度は「保守」について極端に図式してみよう。革新と対比させるとしたら「守旧」といった方がいいだろうか。

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これをC型としよう。守旧派は既得権者であることが多く、現状追認的である。現状になんら不都合はなく、目指す姿もないので問題点も課題もない。「何が問題なのか分からない」「何の問題も起きていない」という状態である。

上記の大学進学を例に取れば「大学は行きたいやつ、行けるやつが行けばいいのであって、社会が関与する必要などない」というスタンスである。

ジャーナリストやインテリは、このスタンスが大嫌いである。「問題」は存在するに決まっているし、何にでも問題を発見できる人が「問題意識の高い人」とされて、何にでもケチをつけるやつが偉いことになっている。

しかし、彼らの「問題意識」は正しいようで、まったく自明ではありえない。井上陽水の「傘がない」の歌詞を思い出してみて欲しい。

テレビでは我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をして しゃべってる
だけども 問題は今日の雨 傘がない

我が国の将来を憂うジャーナリストにとって、現状は何もかもが「問題」に見えるかもしれないが、「君に逢いに行かなくちゃ」いけない陽水にとって、そんなことより「傘がない」ことが問題なのである。それを「意識が低い」と批判する権利が自分にあると考える人は思い上がっている。

もし「傘がない」ことより優先すべき「我が国の将来の問題」があると考えるなら、民主的なプロセスで合意形成を図らなければならない。

本来はそこに、マスコミが適切に関与すべきなのだ。しかし、日本の革新派は、現象を雑にひと撫でした後に、おざなりで紋切り型の課題提起をして「国は何をやってるんだ!」と繰り返すばかりだ。

その程度の叫びは、日本の守旧派にとっては痛くも痒くもないので、何もかもが現状維持で、問題の芽は破綻寸前まで膨らむまで先送りされる。これが日本のメディア環境ではないだろうか。

雑な革新派がのさばる理由

ところで、なぜジャーナリストは守旧派を断罪し、現状を踏まえず肥大した目指す姿を振り回すB型に陥るのか。

それは、そちらの方が面白い記事になりやすいからである。

本来のジャーナリズムは、A型のようなバランスのよい整理をして、読者に問いかけをするべきだろう。そうすれば読者は、書き手がどんな「目指す姿」を前提に「現状」を捉え、どんな「要因」をつぶすためにどんな「課題」を設定しているかが分かる。

そして「そんな目指す姿なんて誰も頼んでねえよ」だとか「そんな課題はごめんだ」といったツッコミができるのである。あるいはより正しい課題設定に向けて、より的確な要因分析を議論できるようになるのである。

しかし残念なことに、ストラクチャー(構造)を書く記事はシンプルではなくなり、感情が動かされにくい。

したがってB型の偏った記事によって、特殊で悲惨な「現象(トピック)」を取り出して「国は何をやってるんだ!」という紋切り型の批判を繰り返してしまうのである。

右翼も左翼も「革新派」

さて本題の「右でも左でもない前へ」だが、右翼が守旧派で、左翼が革新派だと勘違いしている人がいるかもしれないが、実はそうではない。

右翼も左翼も、理念志向が強く、急進的で「目指す姿」が肥大化している点では似たようなものである。

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例えば右翼による「教育勅語を教科書に載せろ!」「大日本帝国憲法を復活させよ!」といった主張は、現状を踏まえたバランスよい問題設定からは外れている。

これは左翼による「資本家の打倒と労働者のための政権を!」という主張と、内容や方向性は異なっているが、理念肥大型という点では同じである。

その意味ではSAKISIRUの「右でも左でもない」という部分は、分かりにくいかもしれない。とはいえ、上図の整理は特に何かを見て作ったわけではないので、間違いがあるかもしれないが、とりあえず現時点での整理ということで。

必要なのは「正しい保守主義」

要するに「右でも左でもない前へ」とは、守旧派のC型でも、革新派のB型でもなく、正しい意味での「保守主義」――退屈なA型――を選択し、目指す姿について合意形成しながら、現状を踏まえた問題点と課題形成を地道に行うことである。

それがSAKISIRUの掲げる「リアルな課題解決志向」の姿となろう。SAKISIRUに関わりたいと考えるジャーナリストは、普通のビジネスパーソンであれば当たり前に使っている「問題解決のフレームワーク」をぜひ勉強しなおしてほしい。

蛇足ながら付け加えれば、退屈なA型だけでは読まれる記事にはならず、世の中は動かせないのも確かだ。

問題をきちんと位置づけ、現状に目配せをしながらも、手法としてはB型のような煽りも必要だ。そのあたりは、あくまでも「分かって」使えば効果的ではある。

ということで、今日のところはこれくらいにしてやる。

4月27日追記:

井上陽水のくだりをB型の説明ではなくC型に移した方が分かりやすい気がしたので修正した。また、もう少し事例があった方が分かりやすいかもしれないと思ったので、加筆してみることにする。

例えば、郊外のアパートの一室で、母子が餓死しているのが発見されたとする。ジャーナリストが大好きな状況だ。

室内の散乱した様子、近所の人の噂話、親族の動向、行政のコメントなどで、これでもかという悲惨な物語が綴られる。最後に識者が「社会はなぜ彼女たちを救えなかったのか?」などとコメントすれば、もう立派な新聞記事だ。

しかし本来のジャーナリズムは、事実をもって思い込みを覆すことだ。この場合の「事実」とは、問題事象が起きた原因である。

調べてみると、貧困家庭を救済するための制度には縦糸と横糸があるが、この母子は制度のスキマに陥ってしまい、不運にも救済されなかったとしよう。であればマスコミはその力を使って、どんなスキマをどのように埋めるべきなのか、という指摘まですることが望ましい。

そのような、新しい制度を生み出す問題提起と、その背景の事実の掘り起こしと分析に労力が費やされた報道であれば、社会にはやっぱりジャーナリズムは欠かせない、という評価になるはずである。

しかし、この母子間には積年のわだかまりがあって、行政の再三の呼びかけにも耳を貸さず、無理心中のような形で亡くなったという事実があったとすれば。

そのような事件に対し「国は何をしているのか!」と批判しても全く意味がないし、むしろそういう事件を“のぞき趣味”で報じる必要はなく、記事化をやめた方がいいという判断もあるのではないだろうか。

――などと、かつて個人的に見聞きした事例を元に加筆してみたものの、大して分かりやすくもならなかった。

とはいえ、ジャーナリストが口酸っぱく言う「ファクト(事実)」が何のために大事かというと、問題の背景にどんな事実があるのか正確に把握しないと、真の要因がつかめず、課題が的外れになってしまうからということを、この文脈で確認しておくことに意味があるかもしれない。

ファクトのそういう位置づけがないと、どこかの三流ジャーナリストのように「この10文字を確認するために、わざわざ釧路を再訪したんだぜ」といった武勇伝が正当化されてしまうではないか。

本当にその10文字に、それだけの意味はあったのか? ただの自己満足ではないのか? 会社の経費を湯水のように使うより、その10文字を削ってしまった方がよかったのではないのか?