合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

「醜態をさらすより、早く死んだほうがいい」と言われたユーミンの今をあなたは見たのか?

2020年の印象的なできごとのひとつに、朝日新聞「論座」の暴走があった。

筆者の選定からしてジャーナリズムを放棄した活動家が目につき、事実による検証という本来のジャーナリズムを続けている同じ会社の峯村健司さんなどが気の毒になった。

そんな筆者のひとりが白井聡で、2020年8月30日掲載の「安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である」を脱稿した高揚感があったのか、29日にユーミン(松任谷由実)についてフェイスブックにこんな投稿をした。

偉大な知性のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ、ご本人の名誉のために。自身の発言の不適切さに思い至り、深く反省をして醜態をさらすより早く死んだほうがいいと思いますよ、ご本人の名誉のために。乱暴なことを口走って不快な思いを皆様にさせたなら早く死んだほうがいいと思いますよ、ご本人の名誉のために。

www.j-cast.com

白井は当然ながら9月3日にお詫びを投稿することになるのだが、白井を擁護する人たちがツイッターに「私、ユーミン当初から好きでないので、全然気にしてませんて」などとリプライしている。

ハーバー・ビジネス・オンラインには矢部史郎が、こんなことを書いている。

この10年間、民主党政権から自民党長期政権にまたがって、いろいろな矛盾が噴出しました。その大きな変動のなかで、ユーミンは、「素敵なもの」から「醜態をさらすもの」へと、評価が一変したのです。振り返ってみれば、ずいぶん薄っぺらいものをありがたがっていたんだなあと、長い夢から覚めたような感慨をおぼえます。

この記事にも賛同するツイートがあった。

荒井由実の不滅の天才性が理解できない人たちは論外として、ユーミンの政治的な立ち位置、というより安倍晋三の辞任に同情を寄せた行為(の好き嫌い)によって、音楽作品の価値評価をあっさり変える人たちがいることは嘆かわしい。

その点、白井はまだましで、荒井由実が「偉大な知性」であったことは認めている。

とはいえ、鋭く鮮烈な印象を与えるアーチストの初期作品だけを褒め称え、その後の活動で生み出された作品をけなし、あの人は堕落した、落ちぶれた、醜くなったなどと言うことは、極めて凡庸なことである。

この場合の「凡庸」とは、自分だけが分かっているような口ぶりで、誰もが言いそうなことを口走ってしまっているという意味である。

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1981年に発行された「音楽の手帖」の武満徹特集に、村上龍が《「アステリズム」のクレッシェンド》という文章を寄せている。

そこには武満の前で(出世作である)「弦楽のためのレクイエム」が一番好きだと言ったときの話が書かれていて、武満は村上にこう答えたという。

「処女作が一番好きだなんて、それは表現者に対する侮辱ですよ」

村上は「その時は、言われた意味が、わからなかった。」としながら「今は、よくわかる。」という言葉で文章を締めくくっている。

この出会いはおそらく、村上が1976年に「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を獲ってから、1980年に「コインロッカー・ベイビーズ」を刊行するまでの間に起こったのだろう。

もし「コインロッカー」を書き上げた村上が、ファンから「ブルー」が一番好きと言われたら、武満と同じ感情を抱いたに違いない。奮闘の末に「愛と幻想のファシズム」を書きあげた後にも、相変わらず「ブルー」が一番好きと言われたら、もう君は僕のファンをやめてくれと言いたくもなるだろう。

無論、「ブルー」などの初期作品を至高として、その後に書かれたものを弛んだとか堕落したとかいう読者は実在する。しかし、浅田彰が、

「才能というのは、子供っぽい欲望を持ち続け、それを貫き通すためにはあらゆる妥協を排除して、いかなるコストもリスクも引き受けてみせる意思だ。」

と指摘したように、作品を生み出すためのコストも失敗して自らの名誉を傷つけるリスクも引き受けた、持続する欲望と強靭な意思こそが才能であって、若いころにたまたま一発当てた人の「才能」などたかが知れている。

一方、衝撃的なデビュー作以降も、前作を超える挑戦をし、成功したり失敗したりし続けた武満や村上は、歴史に残る「才能」と認められるに違いない。

その成否も現時点ですべて確定するわけでもなく、後世に再評価されるものも出てくる。それは「好み」なんてしょぼいものに左右されたものではなく、例えばある「系譜」を見出した人によって、果敢に挑戦した先達として厚く感謝されることもあるだろう。

横道にそれたが、そんなことよりもっと重大な問題は、白井がユーミンの現在の作品をよく見ずに「夭折すべきだった」と言ったとしか考えられないことだ。

例えば2019年11月にYouTubeに公開された「ダンスのように抱き寄せたい」を見てみればいい。そこには、50半ばを過ぎても「子供っぽい欲望」を持ち続け、観客の前で果敢にパフォーマンスするユーミンの姿がある。

ダンスのように もう踊れない
誰もがいつか 気づいてしまうけれども
あなたとなら それでいい
あなたに会えてよかった

www.utamap.com

画面に映るのは、自分を長年愛してくれる老いたファンやバックミュージシャンへの深い敬意、そして、美貌も美声もなく、若さも失われてしまったけれど、与えられた自らの生をおろそかにせず最後まで燃焼させて生き抜こうとするユーミンの真摯な姿勢である。

白井が荒井由実を至高とするのは、ナイーブで良いとしよう。

しかし、もし彼が2000年代の松任谷由美のパフォーマンスに何らかの形で触れたうえで、それでも「醜態をさらすより、早く死んだほうがいい」と思ったのであれば、それは人間としての成熟が何か分からない、気の毒な人というほかない。

よく見てもいないものを「醜態をさらすもの」などと断じて、自らの不明を露呈することほど恥ずかしいことはなかろう。

われわれは、知らないうちにとんでもない高みにいってしまった日本が生んだ本物のエンターテイナーの行く末を、最後まで見届ける幸せを味わおうではないか。