合間縫う腑に落ちない音楽

肩透かしのカタストロフィは続く

「解像度を上げる」ということ

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The Basket of ApplesDate: c. 1893 Artist: Paul Cézanne French, 1839-1906

さいきん「解像度」という言葉を使う人が増えて、共感することが多い。

私たちの人生が基本的に虚しいものである限り、人は解像度を上げて日々の生活を楽しんだり苦しんだりして埋めていかないことにはやっていられない。

10代のころ、セザンヌの絵の何がよいのか分からなかった。そこで日本国内にあるセザンヌを調べたり、フランスから来た企画展に足を運んだりして量を見ていくと、だんだん分かるようになってきた。

セザンヌは、眼のおばけなのだ。ひとりの画家の眼がどんどん大きくなり、画家が眼そのものになっていく。彼には「風景」も「物語」もない。ただ「外部」があり、それをひたすら凝視して絵に定着しようとしている。

それが薄々理解できるようになったとき、セザンヌは自分のなかで最も好きな画家のひとりになった。それは自分の中の、美術に対する解像度が上がった瞬間と言ってよいと思う。

同じような感覚は「悪文」の典型といわれる蓮實重彦の本を読んでいたときにも味わったことがある。

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事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれた欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を重点して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。

難解で歯が立たないと思いながらいろいろな文章を読んでいくと、この人はただ単に、物事や感覚を妥協なく、厳密に書こうとしているだけなのだ、ということが伝わってくる。

すると自分の視界の解像度が上がり、彼の文章から難解さが消え失せて自分の身体に染み込んできた(上記の引用部分は、ほとんどセザンヌの画について語っているように思える)。

後藤明生が、自分の小説を「笑い」と言った意味が判明したときにも、同じような感覚を味わった。それが分かったことで、人生は生きるに値するものだと感じたほどだ。

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わたしは右の七つの疑問符に対して、ほとんど充分に答えることが出来る。まず、最初の疑問符に対する答えは、「忘れた」あるいは「思い出せない」であり、第二、第三の答えはいずれも「ナシ」である。しかし、第四以下、第七までの疑問符に答えるためには、このあと少なくとも一時間近くこの橋の上に立っていなければならないだろう。

解像度が上がるとは、ピントが合うと言い換えてもいいのかもしれない。自分の中に知識が蓄えられたり、波長があってきたり、リズムに乗れたり、意識が変わったりすることで、物事にピントが合ってくる。

すると、対象の細かいところまで見えてきて、作品であればなぜそれが傑作と呼ばれうるのかが分かってくる。そして、それが単なる「個人的な好み」のレベルを超えて、価値として認めるべきであることも分かってくる。ところが実際の世の中はどうだろう。さいきん読んだnoteには、こんなことが書かれていた。

そのとき僕は、あぁ大半の人は「景気」で動いているんだなと理解した。もちろんその人や活動が好きでフォローしてる人もいるが、多くはざっくりとした景色や雰囲気しか見てない。

ここまではそのとおりだと思う。嫌な感じがしたのはこの続きだ。

そういう解像度で見て、面白いものじゃないといけない。だから素人思考でいることが大事。

ああ、そっちに流れるのか。この人は逆に、そういう低解像度の人たちを相手にすることに対する虚しさを感じないのだろうか。

note.com

景気で動く人にチヤホヤされたくて素人思考を追求しているから、世の中アホなものばかりがあふれて、地道な努力の上にリスクを取って表現に臨む玄人思考が軽んじられるとは思わないのか。

まあ、素人思考の方が、ある種の面白さに対して、目が曇っていないので素直に反応できるという意味で、解像度が高いという言い方ができる可能性もある。しかし、ならそう言うべきだろう。

先日DANROに書いた「不協和音を浴びる愉しみ」の中で触れたバルトークの弦楽四重奏曲もそうだ。現代の商業音楽に洗脳された耳には、たぶんピントがまったく合わない音楽だろう。

しかし、彼の音楽は、解像度を上げた演奏家と聴衆にとっては、「解像度の低い人の命よりも大事」と言ってもいい、かけがえのない人類の宝物なのだ。

そういう傑作が軽視され、個人的な好みでつまらないもの扱いされる一方で、解像度の低い人でも楽しめるものばかりが溢れかえる。退屈だと思わないのだろうか。

「そういう解像度で見て、面白いものじゃないといけない」だって? そんな世の中、おれはゴメンだ。抗いたい。