ユリイカの「追悼特集ブーレーズ」の原稿依頼が一向に来ないので、彼の指揮ぶりの違いについて一本書いておく。
YouTubeの動画を見れば分かることだが、オーケストラの指揮者の多くは「顔芸」で仕事をしている。歓喜に満ちた顔、楽しそうな顔、悲しそうな顔、怒ったような顔。表情によって、奏者たちに細かなニュアンスを伝えるのである。
顔芸の指揮者は、たとえば佐渡裕だ。この動画の3分30秒あたりを見てほしい。確かに奏者の士気を鼓舞するところもあり、素人を集めた「一万人の第九」にはもってこいの指揮者かもしれない。
このような感情志向の指揮者は、リハーサルの際に往々にして奏者たちに、言葉による「例え」を使って指示をする。「絹のような柔らかさで」とか「嵐が吹き荒れるように」とか、そういう感じである。
感情志向の指揮者は、飛んだり跳ねたりする。佐渡の師匠のバーンスタインもそうだ。この動画(マーラー:交響曲第5番リハーサル。現在は削除)の28分30秒あたりから、彼は楽団員にこんなことを言っている。
「確かにこれは、単なるリハーサルだ。それに君たちが楽譜を見て音を出せることも知っている。しかし、これはマーラーだ。このトレモロは悲痛な心の叫びなんだ・・・これではマーラーにならない」
この顔芸をさらに進めた究極の境地が、カラヤンの「姿芸」だ。音楽に陶酔した彼が、目をつぶってタクトをフラフラさせるだけで、オケが勝手に素晴らしい音楽を奏でてくれる。その間、彼はスコア(総譜)を見ていないばかりか、もはや譜面台にすら置いていない。
もちろんカラヤンの頭の中には、何度となく演奏した曲のスコアは隅々まで入っているのだろうし、亡くなったロリン・マゼールや岩城宏之のようにフォトリーディングのやり方で短時間に覚えてしまう驚異的な記憶力を持った人もいるから悪いともいえないが。
さて、ここまで長々とどうでもいいことを書いてきたが、ようやく本題に入ろう。ブーレーズの指揮ぶりについて、である。
これまであげてきた「顔芸」「姿芸」の指揮者こそが多くの人がイメージする芸術家像だろうと思うが、彼はそれとは良くも悪くもまったく違う指揮者である。
なにしろ決して「顔芸」をしない人であり、表情を変えずに淡々と指揮をするのである。指揮台に足を揃えて立ち、飛んだり跳ねたりもしない。近代の指揮者の象徴とも言える「タクト(指揮棒)」を持っていないのである。それは若いころから同じだった。
サングラス姿で指揮するブーレーズ。レコーディングスタジオの照明が眩しすぎるから、視覚過敏だからという話もあるが、これは目や顔の表情を封じるために掛けているとしか思えない。
このころカラヤンもバーンスタインも全盛期だったが、若きブーレーズは彼らと全く異なるスタイルで同時代を生きていた。彼らスターが片っ端から売れる有名曲を録音するのに対し、ブーレーズは近現代にレパートリーを絞って、スターたちが取り上げないような曲ばかり録音した。
また、カラヤンやマゼールが暗譜で(スコアを見ずに)指揮をするのに対し、ブーレーズは必ず譜面台にスコアを広げる。そればかりか、ただ前に広げておくのではなく、常に楽譜を見ながらオーケストラに指示を与えているのである。
ブーレーズだって、もうスコアを見ずに振ることくらい、やろうと思えばできるはずだ。しかし、彼の演奏に対するアプローチが、他の人たちとは根本的に違う。
まずはスコアありきで、ひたすらスコアを読んでいく。そして自分自身が楽譜通りにピアノを弾くように、オーケストラを使って楽譜を演奏するのである。カラヤンのように目をつぶってポーズを作るようなことはありえない。
それはロマンチックの極地であるマーラーの演奏でも同じアプローチだ。バーンスタインは苦悩の表情を見せながら、聴衆を非日常の世界に連れて行った。しかしブーレーズは、まるでコンサートホールの聴衆にマーラーを聴かせるつもりがないかのように、激するところも陶酔するところも一切ない、手旗信号のような指揮ぶりをみせる。
ひたすら正面だけを向いてテンポを明確に指示する姿は、「これから私がマーラーのスコアをオーケストラと一緒に検証していきますので、一緒に見て行きましょう」とでもいうような淡々としたものだ。おそらく「このトレモロは悲痛な心の叫び」などといった指示もしていないに違いない。
YouTubeにも「So dry. Its like he's treating it as an academic exercise.」というコメントがあがっている。決して血の通ったものではないとは思わないが、これでは物足りないと思う人もいるだろう。
ただ、僕はブーレーズの演奏を聴きながら、ふと「復活」のスコアを確認し、冒頭のチェロとコントラバスのパッセージの最後にアッチェレランド(加速)の指示がかかっていることを初めて知ったのである。
つまりブーレーズは他の指揮者とは全く異なった存在だったが、そういう人の演奏が好きな人も世の中にはおり、かけがえのない彼の死を惜しんでいるということである。